2010年 01月 03日
Vipassana holiday |
ちょうど満月に差し掛かったこともあり、雪の降り積もる中、薄雲にぼんやりと浮かび上がるフルムーンが幻想的だった。
クリスマス前の23日から年明けの3日までこのセンターに留まって、瞑想に明け暮れる日々。クリスマスディナーがあるわけでも、お正月だからといっておせちがふるまわれるわけでもなく(でも、おはぎが出たよ♪)、普段どおりの日々のような。あくまでも淡々と自分を見つめていく日々。
ホリデーの気分が高揚する時期に静寂に浸れるというのは、すっごく贅沢な時間なのではないか?とそう思った。しかも今回はとっても静かな落ち着いたコースで、穏やかに日々が過ぎていき、個性の強い私も自分を消す(割りとね)ことができたように思う。
クリスマスホリデーだからなのか、ヨーロピアンの方は今回は珍しく皆無。アジアンな女性ばかりでのコースとなった。
ご飯は、ボランティアの奉仕者さんたちが作ってくれる完全菜食の和食ベースといったありがたいお食事。
朝・昼のご飯の後は、夕方にフルーツ&ティータイムである。但し、二度目の参加者からは昼以降の食事は無いため、お茶のみである。これを話すとけっこうな割合で「え~~、晩御飯なし?」と驚かれるが、人間とは不思議なもので慣れればそれが当たり前になり、特に食べなくても平気でいられる。きっとそれは瞑想に集中し無言になるからかもしれない。まあ、喋りだした途端にお腹が空いてきて、センターを出た瞬間に何かジャンクなお菓子的なものなどを食べたくなってきたりすんねんけどもねぇ。
それよりもだいたいは、携帯、音楽、読書、筆記の禁止とコース中に「聖なる沈黙」を守り全く話せくなるという部分に「なぜそんなところへ行く?」的な風に思われることが多いけど最初はね。なんでもそやけど、まあ、食わず嫌いみたいなもんですな。行ったら意味が理解できるし、行ったらなんとかなるんやから、心配なんてもんはただの気苦労なわけやね。
今回は夫婦での参加者(生徒)が4組、先生もご夫婦で、かなりインターナショナルにカップル率の高めな奇遇な会だった。初めて参加した時のような静かで、しかし縁深そうな人々と出会える不思議な会でもあった。コース終了後にみんなで話せる時間を持てるのであるが、夫婦参加の方は夫婦同士で集まって話したりもするのでまたこれも面白い偶然でもある。わたしゃハッタリ英語の枠を出ないが、たまたま4組全員が英語で話せる偶然もあった。お父さんと親子で参加していたアメリカの方もいらしていて、やはり家族で一緒に瞑想を行えるというのはいかに自分にとってヘルプフルであるかを話し合った。
帰る日の朝、なぜか、新しい生徒さん二名から「韓国の方ですよね?」と話しかけられた。「いえ、違いますよ。」と言うと驚かれた。わたしゃ去年の韓国旅行からかなり韓国色が濃くなりつつあるようだ。京都のどこやらの大学生女子は韓国好きが高じて、韓国人と間違った私を発見しては駆けつけて、韓国話で盛り上がろうと思ったという。ま、結果、盛り上がってんけど。
2003年から参加しているので、ヴィパッサナーはかれこれ6年ほどになるが、あまりヨガピープルがいなかった当時に比べ、今やかなりのヨガ人を生徒の中に見つけることができる。今回は女性だけでもたぶん、教えてる人は10人ぐらいおったんちゃうやろか・・・。喋る人は限られているので確実なことは知らないけど。とにかく今はヤングな(死語!)エナジーで溢れているほどに若者でいっぱいである。今や月二回ほどのコースは男女とも満員!特に年末やGWなどはさらに参加の倍率ドン!5倍以上となるそうだ。
この瞑想法によって自分を観察する。浄化に至る道。
しかし、我が道のりは遠そうだ・・・。
人間とは、生きていれば苦しいことがたくさんあるもので(生老病死、愛別離苦など)、嫌なことを避けて何かに逃げ道を探してしまうもの。通常それは、外側の享楽的なものに流れがちで、意識は外へと外へと向かう。その外に向かう意識を内側に向けて、まずは呼吸を整え、自分の肉体の表面を感じてみる。今まで蓋をしてきたものもパンドラの箱も開いて、嫌でも見えてくる世界は、痛い。良薬は口に苦しとはよく言ったもので、真実というのはけっこう痛いもの。しかし、痛み無くして得るものなし(No pain, No gain.)、痛みとは柔軟性に良く似ていたりするようで、痛さの限度を一旦超えればもう少し耐えられて、だんだん許容範囲が増えてくる。
座っているだけで止まっているように見えたとしても、肉体(心や感情、感覚を含む世界)の中では、実にいろいろなことが起こっている、動きまくっているのである。
嫌なことも嬉しいことも実は同質であると知り、そのどっちにも反応せず淡々とニュートラルな状態へと持っていく作業。感覚を感じながらも、それらの感覚に反応、反発せず、ただただそれらを客観的に見ていく作業。
言うは易し、書くは易しで、実際に体験するとなれば、かなり肉体的にも精神的にもいろいろしんどいワケだ。
実践とその継続が大切だと何度も説かれるが、ほんとにその通り。
だからわざわざ時間を作ってまで行くし、行く価値のあるものなのだと思うワケだ。
10日間あれば、自分が何が嫌で何を好むのかの傾向が嫌でも見えてきて、そこでまた淡々と自分の内なるエゴのいろいろと戦うわけである。
感覚をじっと観察する瞑想をやってしまうと、今まで自分がやっていた瞑想って一体何だったんだ?と思うほどに全然違い、全くもって「斬新」である。毎回やってることは同じようでも、毎回が新しいもの。それは万物が瞬時に変化していくものであるからに他ならない。
様々な人が様々に言うことは、耳をさほど傾けないでいいでしょう。己の身で実際に感じたことのみが真実であり、それ以上もなければそれ以下もない。特別な何かがあるわけではない。ただ「ありのまま」の自分のみが見えるだけである。しかし、それこそが瞑想の賜物なのだと私は思う。
ま、それを日々に活かせてな話にならんねけど。
いっぺん10日間しっかり座ると、当面はその分の充電があるので、しっかりやれそうな気がする。・・・かな。
日本ヴィパッサナー協会
http://www.jp.dhamma.org/index.php?id=940&L=12
瞑想についてのログはヨガブログの方にございます。
http://naturalpp.exblog.jp/i8/
by mandalasoap
| 2010-01-03 12:42
| コラム