2008年 06月 11日
私の西の魔女 |
この間、「西の魔女が死んだ」を読んだ。
イギリス人のおばあちゃん(西の魔女)とその孫である中学生の物語。
感想文は曼荼羅の本棚に書いておく。
読み終わり、ふと思い出す自分の父方の祖母のこと。
おばあちゃんはもうずいぶん前に亡くなってしまったけど、私の中では、記憶が鮮やかに生きている。
おばあちゃんも私にとっては西の魔女だった。
その昔、今はいずこへ行ってしもうたオヤジ(その時はいっちょまえに「パパ」と呼んでいた、・・・キモいけど。)とオカンとまだ小さい子供だった私は、お正月になるとおばあちゃんとおじいちゃんのところへ遊びにいった。私的には、遊びに行ってるつもりだが、両親はお正月のご挨拶である。
おばあちゃんは、幼稚園に行く私に12色の色鉛筆と画用紙をくれた。
私はおばあちゃんのひざの上に座って、一緒に画用紙に一生懸命何かを書いた。
書いたものはすっかり忘れているが、おばあちゃんと一緒に絵を描いていたというその感覚はまだ覚えている。
さて、その翌年もまた色鉛筆をもらった。24色にグレードアップしていた。
12色には入っていない、金色、銀色入りだ。
これは、すごい!!と小躍りするように喜び勇んでハイテンションであった。
これを持っていると、近所の子から「貸してー、貸してー」と大人気なのはいいのだが、他の色よりも早く鉛筆が小さくなっていくのが嫌で、よく「貸さへんっ。」といけずをしていたものである。
24色により、私の一年は楽しいものになったのであった。
そのまた翌年も色鉛筆だった。もうお分かりだろう。36色である。
レモン色やエメラルド色といったカタカナな色もあって、ここまで来ると、全然使わない色とかも出てきたり。当時は、まだまだ昭和真っ盛りで、36色入りが一番たくさんの色が入っているセットだったので、「ここまでしてもらっていいのだろうか?きっとすごく高級なものではないだろうか?」と訳のわからん遠慮やら、貧乏性やらが出て、大手を振って喜ぶのもなんだか申し訳ないような気がしていた。
私が色彩に興味をもったのも、私の西の魔女からの贈りものが基礎になっていると思われる。
小学校に上がって、オヤジがどっかへ行ってから、おばあちゃんのところへ出向くこともなくなってしまった・・・。知らない間におばあちゃんもすでにこの世を去っていて、とっても会いたかったのに会えなかったことがすごく切なかった。
だから、この本を読んで、また鮮明に思い出すおばあちゃんと過ごした時のことを、とても大切に懐かしく思う。それは、予期していないサプライズギフトをもらったような、36色の色鉛筆の上をいくプレゼントだった。
おばあちゃんは長崎出身だったので、行くとカステラやらちゃんぽんやらを作って食べさせてくれた。ちゃんぽんに入っているかまぼこのピンクと白が可愛くて、おわんからそれだけ取り出して、小皿に取っては眺めていた。
なんで、私の中で「西の・・・」と言うかというと、おばあちゃんはオランダのクオーターだったから。といっても、当時は私は全然知らなかったし、そんなことはどうでもいいというか、何も考えてなかった。
随分経ってから、オヤジに言われて、「ああ、そういえば、おばあちゃんは色も白いし、奥目やったなあ。」とか、「オヤジの顔はどうりでメキシコ風だ。」(いっこも関係ないか?)とか、「どうりで私の子供の頃は髪が赤茶色でクセ毛だったわけやな。」とか、いろいろあった自分の中の点々が線になったのであった。
ということは、江戸時代ぐらいに長崎におったオランダの人と結婚して代々流れ流れて今に至るのかと思うと、日本史は全然わからんくせに「歴史やわあ。」と思うのであった・・・。
イギリス人のおばあちゃん(西の魔女)とその孫である中学生の物語。
感想文は曼荼羅の本棚に書いておく。
読み終わり、ふと思い出す自分の父方の祖母のこと。
おばあちゃんはもうずいぶん前に亡くなってしまったけど、私の中では、記憶が鮮やかに生きている。
おばあちゃんも私にとっては西の魔女だった。
その昔、今はいずこへ行ってしもうたオヤジ(その時はいっちょまえに「パパ」と呼んでいた、・・・キモいけど。)とオカンとまだ小さい子供だった私は、お正月になるとおばあちゃんとおじいちゃんのところへ遊びにいった。私的には、遊びに行ってるつもりだが、両親はお正月のご挨拶である。
おばあちゃんは、幼稚園に行く私に12色の色鉛筆と画用紙をくれた。
私はおばあちゃんのひざの上に座って、一緒に画用紙に一生懸命何かを書いた。
書いたものはすっかり忘れているが、おばあちゃんと一緒に絵を描いていたというその感覚はまだ覚えている。
さて、その翌年もまた色鉛筆をもらった。24色にグレードアップしていた。
12色には入っていない、金色、銀色入りだ。
これは、すごい!!と小躍りするように喜び勇んでハイテンションであった。
これを持っていると、近所の子から「貸してー、貸してー」と大人気なのはいいのだが、他の色よりも早く鉛筆が小さくなっていくのが嫌で、よく「貸さへんっ。」といけずをしていたものである。
24色により、私の一年は楽しいものになったのであった。
そのまた翌年も色鉛筆だった。もうお分かりだろう。36色である。
レモン色やエメラルド色といったカタカナな色もあって、ここまで来ると、全然使わない色とかも出てきたり。当時は、まだまだ昭和真っ盛りで、36色入りが一番たくさんの色が入っているセットだったので、「ここまでしてもらっていいのだろうか?きっとすごく高級なものではないだろうか?」と訳のわからん遠慮やら、貧乏性やらが出て、大手を振って喜ぶのもなんだか申し訳ないような気がしていた。
私が色彩に興味をもったのも、私の西の魔女からの贈りものが基礎になっていると思われる。
小学校に上がって、オヤジがどっかへ行ってから、おばあちゃんのところへ出向くこともなくなってしまった・・・。知らない間におばあちゃんもすでにこの世を去っていて、とっても会いたかったのに会えなかったことがすごく切なかった。
だから、この本を読んで、また鮮明に思い出すおばあちゃんと過ごした時のことを、とても大切に懐かしく思う。それは、予期していないサプライズギフトをもらったような、36色の色鉛筆の上をいくプレゼントだった。
おばあちゃんは長崎出身だったので、行くとカステラやらちゃんぽんやらを作って食べさせてくれた。ちゃんぽんに入っているかまぼこのピンクと白が可愛くて、おわんからそれだけ取り出して、小皿に取っては眺めていた。
なんで、私の中で「西の・・・」と言うかというと、おばあちゃんはオランダのクオーターだったから。といっても、当時は私は全然知らなかったし、そんなことはどうでもいいというか、何も考えてなかった。
随分経ってから、オヤジに言われて、「ああ、そういえば、おばあちゃんは色も白いし、奥目やったなあ。」とか、「オヤジの顔はどうりでメキシコ風だ。」(いっこも関係ないか?)とか、「どうりで私の子供の頃は髪が赤茶色でクセ毛だったわけやな。」とか、いろいろあった自分の中の点々が線になったのであった。
ということは、江戸時代ぐらいに長崎におったオランダの人と結婚して代々流れ流れて今に至るのかと思うと、日本史は全然わからんくせに「歴史やわあ。」と思うのであった・・・。
by mandalasoap
| 2008-06-11 22:02
| 80年代