2005年 02月 05日
NYの思い出 クラブトリップ1994 |
初めてNYに行ったのは、19歳の時だった。たった1週間ちょっとの滞在だったけど、NYは刺激的で、帰る時に「私は絶対ここに住むんだ!」と強く思って帰ってきた。
【 NYに行きたいか~?! 】
おかんの知り合いのオッサン(以下オッサン)が、若手デザイナーを集めてNYのクラブでファッションショーをやる、という。といっても、インディーズのデザイナーやこれからデザイナーになっていく学生の子達で、すでに活躍しているようなアパレル業界・プロデザイナーショーではない。行った人数は全員でざっと30人ぐらい。まるで修学旅行のようなツアーだった。NYのクラブでショーなんてするアマチュア日本人がおることにビックリしながら、私がいってもええのか、どうかと不安になったりもした。「エリナちゃんは、アクセサリー作ってるんやったら、それをショーでモデルにつけてもらったらええやん。」なんて、言ってくれるもんやからド素人のクセにその気になって、出発の日までたくさん作品を作り続けた。
オッサンとそのパートナー以外は、みんなファッション専門の学生さんで、私と親友のカズちゃんだけが違う種類だった。デザイナーを目指していない私は当時、英語の専門学校に行ってるフツーの学生だった。カズちゃんは、オカマちゃん。オッサンの次に年長で、私は一番年下だった。みんな海外なんてほとんど行ったことも無く、大阪に住んでるといえども、ましてやNYのような大都会には出たことないから、かなり緊張してた。
みんなで週に何度か集まって、公園とかオッサンの店でショーの打ち合わせや練習、自分の担当することやスケジュールなどをたくさん話し合って、詰めていった。そして、ドキドキしながら出発の日を迎えた。
【 NYのクラブで 】
ショーは1週間、決まった一つの場所でやるのではなく、その日その日によって、ショーをするクラブが変わるのだ。この日はどのデザイナーがどこのクラブでやるというスケジュールが決まっていて、それがクラブ情報マガジンに掲載されていた。出展者はみんなパスをもらえるから、1週間のショーの間は毎晩どこのクラブも行き放題のクラブ漬け。ショーの後、アフターアワーのクラブが明け方から始まって、そのまま朝の7時、8時ごろまで踊り続ける、なんてこともありなのだ。
私とカズちゃんは自称クラブキッズ(今言うとなんて恥ずかしい言葉)で、夜な夜なクラビングしてたから、クラブぐらいでは、ビビらんで~、なんて思ったけど、NYのクラブにドギモを抜かれた。それぐらいマジでヒップでクールだった。ごっつい黒人のセキュリティがドアに立っている前に、ドレスコードチェックで並ぶ若者達を尻目にパスを持つ私達がさっさと入れるのも快感だった。「初めてNY来た日本人なのに、先に入ってええのんか~?」なんて、内心はドキドキだったけど。
オープニングは今も忘れない「パラディウム」というクラブ、すっごく広くて、天井高くて、ただのハコではない。そこは異空間で、ジュースやタバコを配るコスプレなお姉さんが、キャットウーマンのようでカッコよかった。大きな音、レーザービームのようなライト、きらびやかな空間で飲んで踊って・・・。広いクラブの中では、みいんなフレンドリーで、すれ違いざまにニッコリしたり、「その服いいね」って声をかけたり。例えば、こうだ。私は踊りながら、そこで横にいたスキンヘッドのカワイイ女の子と一緒に踊りだしたりして、英語が通じなくても、言葉以外の言語が存在するかのように、すぐに打ち解けていったということがあった。そこには、いやらしいものは全くなく、純粋に楽しんでいる者だけがわかるコミュニケーション方法だ。ずっと友達だったみたいな親しみがあるような懐かしいような不思議な感覚。都会って、冷たいイメージだったけれど、ここでは暖かいものを感じた。
他に行ったクラブは、ROXY、SHELTER、SOUND FACTORY、WEBSTERなど・・・。そして、どのクラブでも、必ずオネエ(ニューハーフ)みたいなのがいるものだ。NYじゃ、オネエは「DRUG QUEEN」なんて名前で呼ばれ、ほとんどが仮装している、しかもそれがすごいのだ!欽ちゃんの仮装大賞どころの騒ぎではないほど、ド派手。でも、イカしてる。ル・ポールみたいなオッサン(?)たちがクラブに彩りを添えている。そして、クラブが楽しいのは、彼らがいるからだ。
※マコーレー・カルキン君の「パーティ★モンスター」参照(といいながらマンダラはまだ観てません)
【 ショー当日 】
私達がショーをしたのが教会を改装した「ライムライト」だった。ゴシックな感じで、ステンドグラスとかも残っていて素敵だった。当日は、お昼すぎからクラブでリハだったんだけれども、夜と違って、日の光がさしこむとクラブの中はキラキラと明るくキレイだった。
自分たちのやるファッションショーで使うモデルは自分達日本人ではなく、現地のモデルエージェンシーや現地学生に頼んでいた。私は、英語の専門学校に行って唯一少しだけ英語を話す(ゆうても、無茶苦茶)ということから、フィッター(モデルに服を着せる人)とモデルの通訳という大役を引き受けてしまった。ショーの着替えは戦争だというけれど、本当にそうだ。時間は常になく、慌しく1,2分で着替えさせ、てんてこ舞いのバックステージなんだけど、その後は何事もなかったかのようにモデルたちは、涼しい顔で優雅にランウェイを歩くのだ。私は限られた時間とスペースの中で、つたない英語を必死で喋ってどうにかわかってもらおうと必死だった。
私だけじゃない、みんな誰もが一生懸命、必死だった。
【 ショーの内容 】
ショーでは、ほとんど服を披露するデザイナーの卵たち。メンズ、レディース、いろんなジャンルの服を披露していく。私のJUNKなアクセサリーは、ド素人レベルだったけど、モデルさんがつけてくれることでなんとかそれなりに見えてしまったりして、自分で驚いたりもして。
ショーの後、生まれて初めて雑誌(といってクラブ系フリーペーパーと思うが)&テレビのインタビューを受けた。その時は、心臓が口から出そうで、何を言ったのか、何を聞かれたのかも覚えていない。そこだけ記憶は飛んでいる。覚えているのは、「なんで(素人の)私に質問するのかな」、って思ったことだけ。そして、他の子達とインタビュアーの通訳をした時に正気に戻ったことだけは覚えているのだが・・・。
【 夢の後 】
このショーから帰国して、みんなそれぞれの道を歩んでいった。
一人はミナミの主に、何人かはほんまもんのデザイナーに、ある人はミュージシャンに、私は服屋の販売員、会社に就職した人、フリーターになった人などなど、そしてカズちゃんは九州の実家の牧場の手伝いに帰っていった。
数年後に、私はNYに戻ってきた。NYで語学学校に通うことになった。一年ちょっとだけど、「NYに住む」という夢が叶ったのだ。
そして、自分の部屋は、初めて行った時に泊まっていたホテルから数ブロックの距離。
ふと窓から、ホテルの看板を眺めては、あの日々のことを思い出しているのだった。
【 NYに行きたいか~?! 】
おかんの知り合いのオッサン(以下オッサン)が、若手デザイナーを集めてNYのクラブでファッションショーをやる、という。といっても、インディーズのデザイナーやこれからデザイナーになっていく学生の子達で、すでに活躍しているようなアパレル業界・プロデザイナーショーではない。行った人数は全員でざっと30人ぐらい。まるで修学旅行のようなツアーだった。NYのクラブでショーなんてするアマチュア日本人がおることにビックリしながら、私がいってもええのか、どうかと不安になったりもした。「エリナちゃんは、アクセサリー作ってるんやったら、それをショーでモデルにつけてもらったらええやん。」なんて、言ってくれるもんやからド素人のクセにその気になって、出発の日までたくさん作品を作り続けた。
オッサンとそのパートナー以外は、みんなファッション専門の学生さんで、私と親友のカズちゃんだけが違う種類だった。デザイナーを目指していない私は当時、英語の専門学校に行ってるフツーの学生だった。カズちゃんは、オカマちゃん。オッサンの次に年長で、私は一番年下だった。みんな海外なんてほとんど行ったことも無く、大阪に住んでるといえども、ましてやNYのような大都会には出たことないから、かなり緊張してた。
みんなで週に何度か集まって、公園とかオッサンの店でショーの打ち合わせや練習、自分の担当することやスケジュールなどをたくさん話し合って、詰めていった。そして、ドキドキしながら出発の日を迎えた。
【 NYのクラブで 】
ショーは1週間、決まった一つの場所でやるのではなく、その日その日によって、ショーをするクラブが変わるのだ。この日はどのデザイナーがどこのクラブでやるというスケジュールが決まっていて、それがクラブ情報マガジンに掲載されていた。出展者はみんなパスをもらえるから、1週間のショーの間は毎晩どこのクラブも行き放題のクラブ漬け。ショーの後、アフターアワーのクラブが明け方から始まって、そのまま朝の7時、8時ごろまで踊り続ける、なんてこともありなのだ。
私とカズちゃんは自称クラブキッズ(今言うとなんて恥ずかしい言葉)で、夜な夜なクラビングしてたから、クラブぐらいでは、ビビらんで~、なんて思ったけど、NYのクラブにドギモを抜かれた。それぐらいマジでヒップでクールだった。ごっつい黒人のセキュリティがドアに立っている前に、ドレスコードチェックで並ぶ若者達を尻目にパスを持つ私達がさっさと入れるのも快感だった。「初めてNY来た日本人なのに、先に入ってええのんか~?」なんて、内心はドキドキだったけど。
オープニングは今も忘れない「パラディウム」というクラブ、すっごく広くて、天井高くて、ただのハコではない。そこは異空間で、ジュースやタバコを配るコスプレなお姉さんが、キャットウーマンのようでカッコよかった。大きな音、レーザービームのようなライト、きらびやかな空間で飲んで踊って・・・。広いクラブの中では、みいんなフレンドリーで、すれ違いざまにニッコリしたり、「その服いいね」って声をかけたり。例えば、こうだ。私は踊りながら、そこで横にいたスキンヘッドのカワイイ女の子と一緒に踊りだしたりして、英語が通じなくても、言葉以外の言語が存在するかのように、すぐに打ち解けていったということがあった。そこには、いやらしいものは全くなく、純粋に楽しんでいる者だけがわかるコミュニケーション方法だ。ずっと友達だったみたいな親しみがあるような懐かしいような不思議な感覚。都会って、冷たいイメージだったけれど、ここでは暖かいものを感じた。
他に行ったクラブは、ROXY、SHELTER、SOUND FACTORY、WEBSTERなど・・・。そして、どのクラブでも、必ずオネエ(ニューハーフ)みたいなのがいるものだ。NYじゃ、オネエは「DRUG QUEEN」なんて名前で呼ばれ、ほとんどが仮装している、しかもそれがすごいのだ!欽ちゃんの仮装大賞どころの騒ぎではないほど、ド派手。でも、イカしてる。ル・ポールみたいなオッサン(?)たちがクラブに彩りを添えている。そして、クラブが楽しいのは、彼らがいるからだ。
※マコーレー・カルキン君の「パーティ★モンスター」参照(といいながらマンダラはまだ観てません)
【 ショー当日 】
私達がショーをしたのが教会を改装した「ライムライト」だった。ゴシックな感じで、ステンドグラスとかも残っていて素敵だった。当日は、お昼すぎからクラブでリハだったんだけれども、夜と違って、日の光がさしこむとクラブの中はキラキラと明るくキレイだった。
自分たちのやるファッションショーで使うモデルは自分達日本人ではなく、現地のモデルエージェンシーや現地学生に頼んでいた。私は、英語の専門学校に行って唯一少しだけ英語を話す(ゆうても、無茶苦茶)ということから、フィッター(モデルに服を着せる人)とモデルの通訳という大役を引き受けてしまった。ショーの着替えは戦争だというけれど、本当にそうだ。時間は常になく、慌しく1,2分で着替えさせ、てんてこ舞いのバックステージなんだけど、その後は何事もなかったかのようにモデルたちは、涼しい顔で優雅にランウェイを歩くのだ。私は限られた時間とスペースの中で、つたない英語を必死で喋ってどうにかわかってもらおうと必死だった。
私だけじゃない、みんな誰もが一生懸命、必死だった。
【 ショーの内容 】
ショーでは、ほとんど服を披露するデザイナーの卵たち。メンズ、レディース、いろんなジャンルの服を披露していく。私のJUNKなアクセサリーは、ド素人レベルだったけど、モデルさんがつけてくれることでなんとかそれなりに見えてしまったりして、自分で驚いたりもして。
ショーの後、生まれて初めて雑誌(といってクラブ系フリーペーパーと思うが)&テレビのインタビューを受けた。その時は、心臓が口から出そうで、何を言ったのか、何を聞かれたのかも覚えていない。そこだけ記憶は飛んでいる。覚えているのは、「なんで(素人の)私に質問するのかな」、って思ったことだけ。そして、他の子達とインタビュアーの通訳をした時に正気に戻ったことだけは覚えているのだが・・・。
【 夢の後 】
このショーから帰国して、みんなそれぞれの道を歩んでいった。
一人はミナミの主に、何人かはほんまもんのデザイナーに、ある人はミュージシャンに、私は服屋の販売員、会社に就職した人、フリーターになった人などなど、そしてカズちゃんは九州の実家の牧場の手伝いに帰っていった。
数年後に、私はNYに戻ってきた。NYで語学学校に通うことになった。一年ちょっとだけど、「NYに住む」という夢が叶ったのだ。
そして、自分の部屋は、初めて行った時に泊まっていたホテルから数ブロックの距離。
ふと窓から、ホテルの看板を眺めては、あの日々のことを思い出しているのだった。
by mandalasoap
| 2005-02-05 01:37
| NYとマンダラ